木曜日、縁があって紀尾井町にあるニューオオタニの日本庭園を散策した。
とても疲れていたのだが、しばしの休憩、とてもリラックスできてよかった。
都心にこんな空間があるのが不思議だ。おすすめのスポットだと思う。
このホテルの敷地は、彦根の井伊家のお屋敷だったというのをどこかで聞いたことがあった。紀尾井町の名前の由来だが、紀は、紀州徳川家、尾は、尾張徳川家、井は、井伊家、から来ている。
庭園の案内をみていて、びっくりした。
であれば、紀尾井町は、本来だと、”加紀尾井町”でもよいのだろうが、、、、
ちなみに清正の上屋敷は、桜田門の近くにあって、そこものちに井伊家屋敷になり、あの桜田門外の変では、井伊直弼が、江戸城出勤途中に暗殺されてしまう。
清正になったつもりで、散策しながら、ふと、佐賀関をおもいだした。
Macrophage IIを復活させて最初に出かけたのが佐賀関港。
大分県は、江戸時代には小藩に分断されて、いわゆる飛び地だらけ。
佐賀関、鶴崎(いずれも良港)は、肥後細川藩の領地だったが、その前は、加藤清正の飛び地だった。
佐賀関は、瀬戸内海の最西端に位置し、東に向かえば大阪、京都、、北にあがれば関門海峡を通って朝鮮半島、南にくだれば、黒潮にのって関東方面へ、また、やろうと思えば南蛮貿易もやり放題。
実際、佐賀関や鶴崎は、参勤交代でも重要な海上ルートを支えてきたという歴史がある。
加藤清正は、グローバルな視点をもったひとだったんだろうな、と想像する。
清正は、豊臣秀吉の朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役の際には、いちはやく兵をだしている。
そんなこともあって、海上ルートによるロジスティクスの重要性を認識していたのだろう。
Macrophage IIだが、97年の春、大分港を出発して釜山まで行ったことがある。
釜山には、港を見下ろす公園があって、李 舜臣の銅像がたっている。
私もそうだったが、李 舜臣って誰?という日本人は多いと思う。
文禄・慶長の役で、水軍を率いて日本軍と戦った武将で、韓国側の英雄だ。
しかし清正をはじめとした日本勢は、よく朝鮮半島まで海を渡って戦争しにいったものだと思う。
戦さの大義名分の話ではなくて、方法の話。
GPSもない、無線もない、潮汐表も、正確な海図もないような時代に、どうやって航海したのだろう。
最近訪問した上関、江戸時代には、朝鮮通信使なる大使節団が日本を何度も訪問している。
これって事実上の朝貢なのだろうが、上関では使節団を盛大に接待していたらしい。
彼らも、どうやって日本との間を往復したのだろう。
清正公さん(熊本の民は、清正を”セイショコさん”と呼ぶ)、紀尾井町にしても佐賀関にしても、実にいいところを押さえてるなあ、と思う。