Macrophage II の日記

ヨット(BW-33)のレストア記録を中心にした独り言

ウイリアムアダムスが”到着”した黒島行きたくなった その3

リーフデ号だが、いまさらではあるが、欧州から西回りで日本にたどり着いている。

つまり希望峰ではなくて、マゼラン海峡を抜けて、そこから太平洋を横断というかむしろ縦断して豊後に辿り着いたのだ。

そのルートで日本に来たというのは、初めてのケースだろうから、航海術の歴史の中でも特記すべき出来事だったのだ。

それを”漂流”と称するのはいかがなものか、と思う。

昔よんだ白鴎号の冒険記、小型とはいえ、風上に切り上がることができるヨットでも、たしかマゼラン海峡からチリ経由での日本までのルートに数ヶ月を要している。

それほど大変なルートだ。

そして、アダムスらの大発見は、太平洋上には、大きな大陸はないということを発見したことかもしれない。

当時は、クロノメーターとかないので、おそらく経度については、dead reconing つまり、推定船速と方位による推定しかできていないはず。

ようはテキトーにしか推定できない中、よく渡ってきたものだ。

理論的には北緯32度半まで北上してあとはひたすら真西に向かえば、日本というか豊後には到着するのだが、ひょっとしたら途中で島があれば寄ろうと思っていたのかもしれない。

書簡の中で、32度半でランドフォールしたと言っているが、実際のコースがよく分からない。どの段階で32度半まであがったのだろうか。

というのが、東側からのアプローチであれば、四国とかをランドフォールしてもおかしくない。

アダムス書簡における日本ランドフォールから投錨までの記載を読んでも、彼らはトラブルで著しく低速がおそかったにせよ、臼杵湾(佐伯湾説もあるが)に向かって転針しているので少なくとも舵を失っていたわけではないのは間違いない。

豊後水道に入ってきたわけだから、南東からのアプローチだったのだろう。

であれば、奇跡なのか、それともかなり意図的な判断でそのルートだったのか?